20230402 フリースクール開設への思い①

いつも当教室のサイトをご覧いただき、ありがとうございます。

先日、無事フリースクール(こちらが趣意書です)のプレオープンを終了しました。

プレオープンは終了しましたが、ご相談は引き続き受付しておりますので、「遅かった!」と思わず、お気軽にお問合せ下さい。

さて、この度のフリースクール開設にあたって、多く受けた質問で、印象に残っているものについてお話しします。いただいたこれらの質問から、当教室がフリースクールを開設するにあたり、大切にしていることなどを感じていただければ幸いです。

きょうはその一つ目のお話です。

いつからやろうと思っていた?

実は、開業するかしないかの頃(8年前)から、

不登校生の受入を、前面に押し出してみては?

というお声は頂いておりました。

もちろん、不登校生であろうがなかろうが、学力の差があろうが、自立志向での学びを作り上げるお手伝いを、できる限りさせていただくということには変わりありません。また、これまでの営業の中で、「学習の進み具合が気になり、通学に気後れする」という学生さん、何らかの理由により学校に足を運ぶことが難しい学生さんも、当然受入し続けております。

では、どうしてこのタイミングで「フリースクール」を掲げるようになったのかといいますと。

気兼ねなく教室を使ってもらうために

私の教室では、実践的な学びと長期間向き合っていくことのできる能力を養うことを目的としています。そのためには、学びに向き合う根本的な姿勢を、根気よく整えていくことが必要であると考えています。

しかし、創業したばかりのころは、まだ学習指導要領が変わっていなかったため、テストも一問一答、詰め込みでまだどうにかなるものでした。そのため、根本的な学びの姿勢よりも、

目先のテストの得点!

入試までに時間がない!

急いで成績を上げなきゃ!

まだ間に合う!

などといった、焦りや煽りが私教育(特に、学校を介さない教育)の領域で、まだ大多数だったように感じられていました。

そして、不登校や通学懸念のある学生さんにとっては、そのことはあまりにも残酷なことであるということは、想像に難くありませんでした。「塾」ということばが、そういった焦りや煽りに結びつくのであれば、そういった学生さんにとっては「学校に行けていなくても受入する」という文脈があったにせよ、「塾」と聞くだけで身構えてしまうでしょう

そのため、しばらくの間は、あえて「色」をつけずに営業してきたのです。学校に行けていようがいまいが、学力が高かろうがそうでなかろうが、気後れなく、肩の力を抜いて、対等な関係の中で学びを深められる場づくりができるように、と。

時流の変化

不登校状態であったり、不登校経験者の学生さんや、保護者さんから、この数年でかなり不登校状態の学生さんが増えたこと、そして保護者さんがそのことで何らかの気負いをしてしまっていることなどを、たくさん耳にするようになってきました。また、全国でもフリースクール等の民間施設で過ごす時間を「出席扱い」とする自治体も増えてきていました。

この冬、私は、全国の塾経営者さんとリモートで交流する機会を頂きました。その中で、フリースクールの需要は年々高まるであろうこと、そして運営の方法等について、たくさん学びを得ました。また、隣の登別市でも、早くから不登校対応を実施していることも知り、民間施設として出席扱いできる「健千窯」さんからもたくさんお話を伺いし、やはり学びの選択肢が増えるということは、誰にとっても良いお話であるという認識を強くしました。

室蘭市内でも、不登校状態にある学生さんの学びについては、議会でも取り上げられるほどになりました。しかし、民間施設の出席扱いに関する規定やガイドライン等は、まだ制定されていないため、行政としてもどうお話を進めていけばよいのか迷っているのでは、と考えるようになりました。

とはいえ、「年々増えているから」「流行っているから」創設する、という性質のお話にすべきではないと、私は考えます。

たしかに共生舎も、個人事業(株式会社など法人化しているわけではない)とはいえ営利事業体ですし、教室長である私も塾事業と両方、一人で担っていくということには、相応の覚悟と努力が求められ、それに見合うだけの収益も得ていかなければなりません。

しかし、それであってもなお、この地域の学生さんたちの学びの選択肢が増えること、それが第一義であるべきと考えています。そして増えた選択肢を、堂々と選べるように、地域社会との合意を形成していくこと、そのアシストもしていきたいと考えています。

レッテル貼り

人と違うことをするということは、良くも悪くも注目の的になりがちです。そして「あの人はああだから」という話になっていきます。

でも、実際「あの人」と1対1で話をしてみると、案外違っている、ということも、またよくある話ではないでしょうか。

不登校になると、無意識のうちに周囲と比較して、「ついていけなくなる」「ちゃんと成長できなくなる」などという気後れが生まれ、それが増幅するため、余計に動けなくなる、ということも見られます。また、「特別扱いされたくない」「だけど配慮してもらわなければ学びが進まない」などという葛藤も生まれることもあるでしょう。

それはやはり、「学校に行けること」がたったひとつの正解であるという不文律が、まだなんとなく世間を漂っているからではないでしょうか。

しかし、令和元年10月25日付、文部科学省初等中等教育局長通知には、このように言及されています。

【不登校児童生徒への支援は、「学校に登校する」という結果のみを目標にするのではなく、児童生徒が自らの進路を主体的に捉えて、社会的に自立することを目指す必要があること。また、児童生徒によっては、不登校の時期が休養や自分を見つめ直す等の積極的な意味を持つことがある一方で、学業の遅れや進路選択上の不利益や社会的自立へのリスクが存在することに留意すること。】

つまり、「不登校状態になること」について、公的にも「リスクに注意しつつも、選択肢のひとつとなる」と言及されているということです。何も負い目に感じることはない、ということです。

私としては、学校教育はもちろん必要であると考えていますが、それが一律に強制されるべきとは考えていません。それは、人の生き方は様々で、どういうきっかけがあったにせよ、その選択をしなければならないのは、自分自身であり、回りの人はその選択の一歩手前まで支えることしかできないと考えているからです。

無論、知見の少ない子どもがそういった選択をすることには、心配はつきものです。
しかし、成長を信じて見守り、必要な場面で必要な助けをすることは、どんな子どもにも必要なことではないでしょうか。

そう考えられるようにするためにも、同調圧力めいた「レッテル」を意識せずに選択肢を取っていけるようにしたい。

そのためにも、やるべきことをコツコツ積み上げていく。
学習塾事業もフリースクール事業も、そこは変わらないと思っています。

自分の中にある「やってみたい」「これならやってみてもいいか」が増えるように。

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